津の偉人
あいうえお順の国語辞典を作った人 谷川士清 (1709~1776)
士清は江戸時代の中ごろ、宝永6年(1709)八町のお医者さんの家に生まれました。幼い頃からお父さんや福蔵寺の和尚さんの教えをうけ、21歳の時、お医者さんになるための勉強をしに京都へ行きました。京都では医学だけでなく日本の古い時代のことを研究する神道や国学など幅広く学びました。5年後に津へ戻り家の仕事をつぎ、昼はお医者さん、夜は国学の研究をしました。また、国学を教える洞津谷川塾も開き、たくさんの人がお弟子さんになりました。
士清は『日本書紀』の研究に20年以上も取り組み、『日本書紀通証』という本を出版して注目されましたが、特に付録の「和語通音」は全国の学者を驚かせました。言葉の種類「動詞」が使われる時、言葉の最後が規則正しく変化することを、初めて示した大発見だったのです。
もう一つ、士清の大きな成果として、日本で初めて言葉をあいうえお順にならべた本格的な国語辞典『和訓栞』をまとめたことです。『日本書紀』を研究する中で調べた言葉が約2万1千語にもなったので、言葉を調べるのに便利なようにまとめたものですが、みんなも使っている国語辞典のもとになりました。出版をまぢかにした安永7年(1776)士清は病気で亡くなってしまいますが、谷川家の人々は全部で93巻82冊もある『和訓栞』を何回にも分け110年もかけて出版しました。完結したとき、時代は江戸から明治に変わって20年もたっていました。今でも本を出版するのはお金がかかりますが、木の板に文字を彫って刷る木版印刷はもっとお金がかかり、家の財産も全部使い果たしました。
「ふるさと読本 知っておきたい津 伊藤印刷(株)より引用」
津藩の教育に力をそそいだ漢学者 斎藤拙堂(1797~1865)
父は津藩の江戸屋敷につとめる武士で、拙堂はその屋敷で生まれました。幼いころから漢学を学び、14歳になると江戸幕府がつくった全国でも最高レベルの学校「昌平坂学問所」に入学し、20歳のころにはもう立派な学者になっていました。
第10代藩主高兌が藩校「有造館」をつくると、拙堂は先生をすることになり23歳で江戸から津に移り、有造館のトップクラスの教授の一人となりました。高兌が亡くなった後には、12歳の若さで第11代藩主になった高猷に直接勉強を教える役割も担いました。参勤交代で高猷が江戸にいく時は一緒についていき、間宮林蔵や渡辺崋山など一流の学者や文化人と知り合い、より広い知識をえると共に人のネットワークをつくりました。やがて有造館の3代目の学長となった拙堂は、災害や天候異変で作物がとれないときの対策を考えたり、海の守り方、外国との交渉の仕方などを本にまとめて出版し全国的な評判をとりました。伝染病の天然痘から人々を守るため津で種痘をはじめたのも拙堂でした。また、西洋の学問や技術を学ばせるために、津藩の優秀な若い侍たちを長崎の学校に留学させるなど人づくりも進めました。
63歳まで学長をつとめた拙堂は文筆家としても全国にその名を知られ、特に『拙堂文話』は中国人も驚くような見事な漢文(中国文)で書かれた名作として、現代の中国でも出版されています。また、梅の名所・月ヶ瀬を訪れた時のことを書いた『月瀬記勝』により、その名文と相まって月ヶ瀬が全国に知れわたる観光地になりました。
拙堂は引退してから亡くなるまで、今の鳥居町のマルヤスがあるあたりの近くに建てた茶磨山荘に住みました。拙堂という人はお酒が大好きで、性格もおおらかだったため、山荘には藩内の漢学や文学をたしなむ人たちが武士も町人も関係なく身分を超えて盛んに集まりました。、また全国各地からも大塩平八郎、吉田松陰、横井小楠、河合継之助、三島中州など大勢の人が訪ねてきました。69歳で亡くなり墓は四天王寺にあります。
「ふるさと読本 知っておきたい津 伊藤印刷(株)より引用」