かんしょういん
寒松院
この寺は、江戸初期には昌泉院といったが、二代藩主藤堂高次公(たかつぐこう)が、藩祖高虎公の霊をまつるようになってから、高虎公の院号をとって寒松院 というようになった。それ以後、この寺は藩主の菩提寺として重きをなし、藩費で維持された。藩祖の百五十回忌には鐘と鐘楼、十代藩主高兌公(たかさわこ う)のときには、本堂・新書院・山門が再建されたりして、その勢いは他に並ぶものがなかった。ところが明治になって藤堂氏が離檀し、昭和20年の戦災で全 焼してしまった。
南の入口から寺内に入ると、正面に本堂がある。しかし、これは戦後、他所から古い堂を持ってきたもので、昔の寒松院をしのぶことができない。
左手墓所には、初代高虎公、高虎夫人をはじめ歴代藩主の壮大な五輪塔が立ち並んでいる。西側にある六代高治公(たかはるこう)から十代高兌公の墓は板石塔 婆になっている。そのなかで七代高朗公(たかあき)の墓碑が欠けているのは、昭和20年6月26日の爆撃によるものであり、当時の傷痕がこんなところにも 残っている。北側には、津の支藩久居藩歴代藩主の墓塔が並んでいる。